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瀬戸焼を知る

瀬戸焼の歴史

磁器生産の開始 江戸時代

江戸時代の瀬戸窯業は、慶長15年(1610)に初代尾張藩主徳川義直が東濃地方に離散していた瀬戸の陶工達を呼び戻し、彼らを藩のご用窯として保護したり、諸役の対象から外すなどの保護を加えたことにより、再び活性化していきました。そして、今までの大窯に代わって、大量生産には合理的であった「連房式登窯」(れんぼうしきのぼりがま)の採用が一層、活性化に拍車をかけることになりました。

連房式登窯

ところが、江戸時代初期に九州の肥前で磁器の生産が始まり、その生産が発展し、製品が全国に進出するようになると、瀬戸の陶器の販路は日に日に狭められていきました。

江戸時代後期になると、九州肥前の磁器に対抗するため、瀬戸においてもようやく磁器を焼造しようとする気運が高まり始めました。そして、享和年間(1801〜04)に瀬戸村で染付磁器が開発されると、磁器生産は村々へと急速に広まっていったと言われています。このように瀬戸で磁器が焼かれるようになると、磁器を「新製焼」あるいは「染付焼」と称し、陶器を「もともとの仕事(方法・技術)のやきもの」という意味で、「本業焼」(ほんぎょうやき)と称して呼び分けるようになりました。 

染付山水図水指

染付山水図水指

19世紀初期
器高16.6
(瀬戸蔵ミュージアム蔵)

しかし、瀬戸の磁器は、まだまだ肥前のそれにおよぶものではありませんでしたが、文化元年(1804)、後に瀬戸の磁祖とあがめられるようになった加藤民吉(たみきち)は、磁器の製法技術を見に付けるために九州へ旅立ちました。民吉が帰村すると、以後、新しく「丸窯」(まるがま)が導入されたり、生産の分業制が確立され、瀬戸の磁器生産技術は飛躍的に向上していきました。  また、その頃瀬戸窯では、一家一人の制により二男以下が陶業を営むことはできませんでしたが、磁器生産については二男以下でも自由に開業できるようになったことや、本業焼から新製焼(しんせいやき)への転業者も多くなったことから、まもなく磁器生産は陶器生産をしのぐ勢いになりました。 

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